患者レポート

多発性嚢胞腎 患者インタビュー

岐阜県在住 50歳 女性

Q. 多発性嚢胞腎であるとわかったのはいつですか。

A. 勤めはじめて3年目に初めて受けた人間ドッグの腹部エコー検査で判明しました。今から4年前、46歳の時でした。それまでは非正規雇用だったため、簡単な健康診断しか受けたことがありませんでした。

Q.それまでは何も自覚症状がなかったのですか。

A. 高血圧はその前からあり、近くのかかりつけ医で診察も受けていましたが、減塩指導と「肥満気味だからかな」と言われ、高たんぱく低カロリーの食事をして減量に努めていました。クレアチニンも少し上がっていたので「高血圧が続くと腎臓もやられることがあるから」と説明されていました。多発性嚢胞腎が判明してからは、「家族歴がなかったので全く疑わなかった」と謝られました。

Q. 親族に腎臓の悪い人や、くも膜下出血でなくなられた方はいらっしゃらなかったんですね。

A. はい。父は3年前肺がんで亡くなりましたが、がんセンターの医師に確認しましたが、嚢胞はまったくありませんでした。母は健在です。母自身をはじめ、母の血統に親族は大変多いのですが(いとこは30人もいます)、腎機能に異常をきたしている者も脳出血した者もひとりもいません。むしろ長生きの家系です。私の兄弟も大丈夫です。私からの家族歴の始まりということになります。

Q. では、多発性嚢胞腎であるとわかったときは驚かれたでしょうね。

A. 聞いたこともない病名でした。診断されたその日は、インターネットで調べまくり、ショックで一睡もできませんでした。夫に報告したときは泣き崩れていたと記憶しています。自分は健康で丈夫なほうだと信じていたのでなおさらでした。自分自身のことについてもそうでしたが、遺伝性の病気であると知って(子どもが3人いるので)子どもに申し訳ないという気持ちも強かったです。

Q. そのあとの経緯を教えてください

A. 人間ドッグを受けた病院に腎臓内科があったのでそこで定期的に診てもらうことになりました。その頃はクレアチニンも1.5前後で、脳MRIを撮り、3ヶ月に1度検診をしました。その頃一番つらかったのは食事のタンパク制限でした。食べるものに神経質になり、あっという間に何キロも体重が減ってしまいました。もう一つ私が苦しんだのは、情報の少なさです。当時インターネットの情報は何年も古いものが多く、わかっているのは難病で手のうちようもないこと、当時の主治医には何を聞いても「ぼくを信頼してくれれば大丈夫」と言われるばかりで、将来どうなるのか、私の場合はどうなるのか尋ねても「こんなクレアチニン値でそう心配することはない。もっとひどい腎臓病で苦しんでいる人もいるのだから」ととりあってもらえず、神経過敏なのではないかと心療内科を紹介される始末。聞いてはいけないのかと、だんだん私も無口になっていきました。

(ネット上の情報はそれから一年くらいで急速に充実してきていたのですが、たとえばカフェインの摂取は避けたほうがいいという情報について聞いても、医師から「そんな話は聞いたことがない」と言われるとネットの情報も信頼できなくなりました。)

Q.何の症状もなかったのですか

A. 診断後1年たった頃、嚢胞感染で高熱が出ました。そのとき病休をもらったのを機に、専門医に診てもらおうと決意してインターネットで調べて杏林大学病院に紹介してもらいました。

Q. 自分から紹介してくれと頼んだのですか。

A. はい。ものすごく勇気が要りました。いつもの主治医が休職中だったのを幸い、他の腎臓内科医に頼んで紹介状を書いてもらったのです。その頃のインターネット上には「多発性嚢胞腎の場合はタンパク制限は無意味ではないか」という趣旨のことが書いてあるようになり、なぜ、私はタンパク制限されているのかをその医師に尋ねてみました。「多発性嚢胞腎ではふつう腎機能が悪くなることはまれです。あなたの場合は、多発性嚢胞腎以外の疾患が潜んでいることが考えられます。そのような時は腎生検して原因をはっきりさせるのが通例ですが、嚢胞を傷つけるのは好ましくないのでやりません。腎機能を悪くしている他の腎疾患の悪化を防ぐために食事制限をしているのでしょう。」と説明されました。

Q. 多発性嚢胞腎の半数が末期腎不全に至ることをご存じなかった?

A. 今思えば驚くような回答ですよね。当時は既に大病院のHPにも普通に腎不全になるということが書いてあったのに・・・私は頭の中が混乱すると同時に、やはり専門医を一度訪ねようと強く感じました。しかし、私は地方(岐阜)の人間。しかもVIPでもない一般人。大都会東京の、しかもこの世界で第一人者の先生に診ていただけるのかととても不安に思いながら、一人、新幹線に乗りました。

Q.杏林大学病院の印象はどうでしたか。

A. 田舎の病院とは比べ物にならない建物に足がすくみました(笑)。しかし、初めてお会いした東原英二先生は、たいへん温かく私を迎え入れてくださいました。「遠いところからよく来たね。」と。その笑顔にいっぺんに緊張がほぐれました。私は疑問に思っていたことをすべて紙面に箇条書きに書き出していったので、それにひとつひとつ、丁寧に答えてくださって、それが本当に嬉しかった。研究の現状についてもきちんと話していただき、名刺までいただいて(メールアドレスまで書いてあってびっくりしました)一人の人間として尊重していただいているという感じがしました。

Q.それで杏林大学病院まで通院することになったのですね。

A. はい、東原先生は「岐阜からの通院は大変だと思うけど、3ヶ月に一度の通院ができれば、おいで。」と言ってくださいました。心配していた母に「私、日本一のお医者様に診てもらえることになったんだよ。」と喜びの電話をしたのを覚えています。

Q. 岐阜からの通院は大変ではなかったですか。

A. 次の時からは毎回夫が仕事を休んで自家用車で送迎してくれました。中央道で約350km。夫とのドライブ旅行はいろいろな話ができて私には楽しい時間でした。(夫は大変だったと思いますが)。普段の体調の変化やちょっとした疑問、かかりつけでもらった薬などについては、メールで先生にお聞きしました。先生からの返信はいつも迅速で、いつぞやは海外からの返信で、申し訳なく思うほどでした。職場に提出する診断書も面倒なものでしたが、嫌な顔一つせずに、パソコンと格闘しながら(?)書いてくださいました。

Q.それからは心理的にも安定したのですね。

A. そうです。信頼できる医師との出逢いがこんなに平安をもたらすとは思いもしませんでした。ただ、だんだんクレアチニン値が高くなり、3を越えた夏(昨夏)に、先生から「早ければ一年以内に透析」と言われたときは、大変なショックでした。いつかはと思っていましたが、なんだか何年もこのまま様子見でいけるような気がしていたので。先生に教えていただいて家でグラフを作成して、透析時期を予測して納得しました。発覚からたった3年でしたが。

Q.末期腎不全に至る過程にはかなり個人差があるようですが

A. このHPにもグラフの作成の仕方があったんではないでしょうか。一次関数のグラフのようなもので、私のグラフはマイナスの傾きが大きかったですね。でも、末期腎不全に至る平均年齢が50歳くらいですからちょうど普通ですか。でも、自分はそうじゃないと信じたいのも人情でして・・・

Q.現在50歳。今はどのような状態ですか。

A. 夫からの申し出で、夫をドナーとしての透析導入前腎移植手術を名古屋の病院で予定しています。東原先生はその報告を聞いて一言「優しいご主人でよかったね。」と。先生は研究者としてもありがたい方ですが、それ以上に人間としてすばらしい方です。移植は私にとって嬉しい展開のはずなのですが、この9月に杏林大学病院での最後の診察があった際、「診察終了」のボタンを先生がクリックされたのがなんだかとても悲しかったです。でも、その後もメールでいろいろ先生に相談しています・・・。今は主治医は名古屋の移植医ですが、ここの先生方も信頼できる方たちかつフレンドリーで、本当に私は恵まれています。名医ほど気取っていないというのが最近の私の印象です。

Q.ほかの患者さんへ伝えたいことは。

A. 多発性嚢胞腎は東高西低といわれるくらい全国でも診察のレベルがまちまちです。特に私たちのように地方には病気事情に明るくない病院も多いのが事実です。このHPにたどりついた人の中には、かつての私と同じ五里霧中のかたもいるのではないでしょうか。どうか、あきらめないで。嘆いているだけでは何も解決しません。最終的に決定するのは自分自身。医者任せでは無く、自分から行動を起こしましょう。情報も積極的に入手しましょう。そうすれば信頼できる医師はきっと見つかります。わたしは最近PKDの会等の患者会にも入会しましたが、そういうところのHPや人の輪から情報を入手するのも一つの方法です。信頼できる医師との出逢いは、難病と闘う自分の心の安定につながります。

また、この病気が遺伝性であることに苦しんでいる方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。私も家族歴の始まりになってしまったことに子どもたちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。私自身は何も知らなかったから迷わず結婚も出産もしてこれた。それなのに・・・と。しかし、私自身が明るく今後を生きていくこと。これこそが子どもたちが明るい未来を信じられる力になるのではないかとも考えています。それぞれの方にいろいろな迷い、決断があると思いますが、私は医療の進歩と子どもたち自身の心の強さを信じたいと思います。